反表現規制運動や都知事選の内幕に見る民主(=立憲法治)主義と「民主」主義

ちょっと面白い題材があったので、紹介してみます。
相変わらずの表現規制ネタではありますが。

まずは、コミケの事実上の顧問弁護士として知られる山口弁護士のツイートから。

このツイートを見たとき、私の第一印象は「はぁ?」でした。
山口弁護士としては何らかの理由があるのでしょうが、その理由は何なのか?*1そして、誰かに「表現規制運動(の表向き)から撤退を強いる」ことができるような理由ってのはどんな話なのか?

というわけで、疑問を感じたのでこんなツイートを出してみました。

 その結果、いくつかの経路から情報が入ってきました。情報自体の意味合いはともかく、客観的事実としては十分に追跡可能な内容でしたので、誰かが嘘をついているのでなければおそらく正しい情報だったと考えます。

この時点で「山口弁護士がなぜ上記のツイートをしたか」はクリアカットにわかりましたが、にしても議論ややこしいな……と思ってたら、当事者からさらなるツイートが。

 これで 得られた情報の裏付けが取れた&それ以上に追加の情報が得られた、と考えます。

そもそも桶川ストーカー事件の被害者父親への名誉毀損に関わった時点で人格としてどうなのか?という話はありますが、それは過去のこと。脇道ではありますが、新約聖書:ヨハネの第一の手紙1章9節にもこうあります。(口語訳より引用)

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 主イエスの血、全ての罪より我らを潔む。」 

 ただ、同時にこの件についてはこういう側面もあります。

法律的には罪を償ったと言えるでしょう。ですが、この側面を否定することも難しいです。で、「なぜ」表に出て政治活動をやるべきではないという議論になるか、というと。

これは過去にあるジャーナリストから教わったのですが、「政治的なアクションは、常に身が綺麗な人が行わなければならない」と。質問や会話を通じて教わった趣旨としては、こんな話でした。

政治的な発言に対する反論と、発信者(活動者)の人格的な信頼を失わせる攻撃の間には、市民的には区別がつかない。だから、後者の攻撃を受けかねない人が政治的な発言に関わっていると、その発言の説得力がなくなってしまうリスクが高い。

だから、政治的なアクションを起こす人はクリーンでなければならない。問題を抱えていない人でなければならない。

おそらく今回の一連の問題もそういうことでしょう。この思想の根幹は全くもって法治主義的ではありませんが、市民一人一人の考えを忖度した結果とは言えます。その意味でこの手の考えは「民主」的*2ではあります。

一方、少なくとも投票をベースとした選挙で当選するかどうかに限って言えば、完全に多数決主義で物事が決まります。選挙ってのは民主主義のインフラと見なされることも多いですが、多数決主義との親和性も高いです。その結果、非民主的なことが起きる可能性もあります。*3

選挙という仕組み自体が、(時には多数決を無視しなければならないこともありうる)政治の世界と多数決との間でのすり合わせを支えるインフラなのかもしれません。

脇道にそれて政治家/政治活動者のクリーンネスといえば、こんな話題もありました。

otokitashun.com

これが実現できれば十分に理想だと思いますが、この理想を支えるためのインフラが現在の日本にはおそらく欠けています。
端的に言ってしまえば、中立を装わない大規模マスメディアと、それらのメディアが発信する情報を第三者として評価するファクトチェックの仕掛け。

ただ、これも欠けているとはいえ、だんだん立ち上がりつつある様相も見て取れます。中立を装わないメディアといえば、例えばこれ。

なぜ都知事選は繰り返すのか――小池の影法師・猪瀬直樹の研究(水道橋博士)|ポリタス 参院選・都知事選 2016――何のために投票するのか

そしてファクトチェックの実例がこれ。

 

元の話題に戻ると、山口氏 vs 青木氏の件について私自身はこう考えます。

  • コミケ準備会では珍しい事案だが、小規模な即売会主催サイドからは「自分たちにとって都合の良い表現についてだけ、表現の自由が欲しい」という思想の発露を感じることがしばしばあります。この件は、コミケ準備会といえども末端レベルではこの思想と無縁ではないことを改めて裏付けるエピソードとして読み解きます。
  • 山口氏が青木氏の反表現規制運動に対して良く思わないことには最低限の共感はします。が、どんな理由があろうと、山口氏はああやって表に出て他人の活動を攻撃すべきではない。その点で山口氏の活動は決定的な失点を踏んだ。もしああいう話をしたかったら、裏でやるべき。
  • 一方で、青木氏の反表現規制運動が真に機能するかというと、やはり上記の理由から何かしらの壁が立ちはだかることはありそう。とはいえ、これは活動が実を結ばない可能性への理由付けであって、彼の反表現規制運動そのものを批判する理由ではあり得ない。
  • 山口氏と青木氏の反表現規制運動、どちらに「本質的な批判を寄せるポイントがあるか」というと、上記の理由から、現状では前者。
  • 青木氏のやったとされること(=桶川ストーカー事件の一連のアレ)を良いこととは思わないけど、罪を許さないというつもりはない。彼は適切に謝罪し、かつ社会との関係性においても罪を償い終わっている。
  • どっちみち、私自身が彼らどちらの活動ともガッツリ組んで協働することはない。自分は自分なりに表現規制について考えて、自分なりの動きをしたい。その段階で彼らと同じアクションを起こすなら、特定のアクションについて効率性や規模を重視して誰かと一緒になることはありうるけど、誰かのために貢献するという意識ではない。

*1:前半戦では合理性があるかどうかではなく、「山口弁護士がどう考えているか」こそが重要です。

*2:ここでカッコ付きの「民主」とは、ほぼ多数決主義とイコールです。極端なことを言ってしまえば、特定民族の絶滅を多数決で議決すれば実行する、というやつです。

*3:本記事執筆直前くらいの時点で、諸外国に比べれば十分にクリーンかつ民主的に行われる選挙である都知事選をめぐる調査の結果在特会の元代表として知られる桜井誠氏に対する20代支持率が鳥越俊太郎氏への支持を上回っていること自体が、必ずしも選挙が民主主義的な結果を示すとは言えないことの証左かと考えます。

表現規制と線引きの問題

とりあえずここ数日の表現規制をめぐるブログエントリとツイートを。
まずは一番ホットなエントリがこちらでしょう。

otokitashun.com

表現規制だけじゃなくて在特会問題もあるわけで、彼女を都知事に推すべく票を入れるのはどうなの?問題でもありますが、「在特会的なものを是としない&在特会のやり方は間違っている&自分が在特会に関わったのは間違いだった」を表明してくれればそれはそれでいいわけで、とりあえず今は表現規制の話を。

これに対して、反論ツイートも流れてきました。

 まさにそういうことで、表現規制は「実績がなく、質が高いわけでもなく、問題のある作品が世に出ることを認めるか」問題です。さらに言えば、何らかの意味で反社会的な表現*1でなくても、そもそも出版社をめぐるシステムそれ自体が伝統的に「実績がなく、質が高いわけでもない作品を排除する」システムとして機能してきた歴史もあり、この問題にストレートに機能する答えはありません。

そもそも「多くの市民が支持するかどうか」で区別を許す仕掛け自体が差別たりうるわけで、市場原理における競争「だけ」差別から外す、ってのもそれはそれでおかしいんですが。

日本国憲法にはこうあります。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 表現の自由を濫用した結果の一つが在特会やヘイトスピーチをめぐる問題であり、もう一つがエロ表現に対する表現弾圧問題だ、と思うところです。

市民的に受け入れられる限度はあるんですが、それは「基本的人権と別枠で」われわれクリエイター一人一人が濫用せず公共の福祉のために表現の自由を活用していくことで達成すべきなのだろう、と。

あと、規制派の皆さんももう少しきちんと話をしてほしいな、と思うところです。実は今回の小池氏の発言は、「規制派*2の歩み寄り」として理解するならとても筋が通っていてありがたい話です。一つの問題点が明らかになるわけで。

*1:私自身は実写U18エロを想定してますが、自民党的には全てのエロ表現がこの範疇かな?

*2:ええ、私は現時点で彼女を規制反対派とは見なしません

26万票の意味と、私たちが日本会議に学ぶこと

(7/11改稿: 山田議員が獲得した議席数を、昨夜時点での予測値15万票ではなく最終確定のもの26万票に差し替えました。それに伴い各所も変更あります)

我らがオタクが表現規制反対を願って山田太郎議員に投票した数、26万票。
コミケにすると2日分弱、オタクを一つの圧力団体として見れば大きな業界圧力団体に匹敵する程度の組織になります。現在の日教組が可能な投票取りまとめ数の倍以上?

というわけで、ある程度の結果は出せたのは確かですが、それは求められる、言い換えると明確に結果と言えるものを出せたかどうかは、現時点ではいろいろ怪しいです。なぜなら今のところ議席確保には繋がりませんでしたから。

オタクは必ずしも表現規制反対で一枚板ではありません。表現規制賛成派として表現規制を推進するような活動を展開している即売会スタッフも存在が確認されています。他のしがらみで山田太郎に投票できないオタクもいるでしょう。そこまでひっくるめて、オタク世界とは26万票の票田であることを証明できた、と言えそうです。この数字は全国の有権者数1億人から見ると0.2%強。衆院・参院あわせて議員数が700人ちょっとなので、純粋に比率で考えるとオタク票田は1~2人の議員によって代表されてもよい計算になります。
しかし、たった1~2人にすぎないのも事実です。例えば日本会議国会議員懇談会はざっくり300人弱、LGBT議連が初会合で30人弱。そう考えると、やはりオタクは強くはありません。

このような状況を踏まえて、私たちは日本会議からも学べることがありそうです。

日本会議と言えば非民主的としか言いようがない自民党憲法案やその他安倍政権の施策の背後にある組織と言われています。その日本会議が力を獲得するきっかけとして指摘されている長崎大奪還が40年ほど前のイベントです。

hbol.jp

日本会議はこの時代から口コミを少しずつ広げ、時には谷口雅春をはじめとした宗教家のカリスマをもとに勢力を拡大し、とうとう政権与党に内閣総理大臣をはじめとする多数の同調者を送り込むことに成功しました。

私たちオタクは、オタクでない市民の共感や理解を得るために努力してきたでしょうか?いいえ、多分それどころではなく、むしろオタクの間でさえ反目してきたのではないでしょうか。特に女性向けの同調圧力は、オタクの間でさえ自分たちの活動を隠す力として機能してきました。
これでは、口コミをはじめとした共感を得ることは決してできません。

私たちは、日本会議から学ぶべきです。根気強く、少しずつ丁寧に多くの市民の共感を得ることができれば、民主主義を破壊することさえできるのだ、と。我々オタクが自分たちの表現の自由を確保することが、民主主義を破壊することより原理的に難しいこととは思えません。

私たちも、まもなく訪れる敗北から表現の自由のために一歩一歩歩んでいこうではありませんか。
日本は1945年8月15日に敗北し主権を失いましたが、今やここまで辿り着きました。敗北は終わりではありません。むしろ出発点の定義でもあります。

私にとっての表現の自由

さて、選挙まであと一晩ですね。

この選挙は冗談抜きに「民主主義国家・日本」の未来を占う重要な選挙と考えてます。で、実際に起きることは民主主義の終焉、と。とはいえ全世界的にもトランプやbrexitで起きてはいるので、結局現行の民主主義の実装も色々ヤバかった、というだけの話なのかも。

それはそうと、表現の自由話。
当然選挙の争点としても上がってますし、実際に「表現規制を訴えたほうが、表現の自由を訴えるよりも票になる」と言われている現状です。ただ、本当に政府「だけ」が表現弾圧の主体なのでしょうか?

私が同人活動を10年ちょっとやってきて、2度ほど同人活動を続けられないかも?と真剣に思う脅威がありました。その2つは、どちらも政府ではなく民間の動きでした。

民間による表現弾圧には何らの暴力装置も使われませんし、裁判所も出てきません。国会やその他議会で何の決議をするわけでもありません。ただ淡々と民間組織が特定作家の表現の場を奪うだけです。
民間対民間の世界には契約自由の原則があります。民間組織が誰かに表現の場を提供するかどうかは、最終的にはあくまで民間組織が決めるもの。だから、インフラを握った組織は政府と無関係な民間組織でも、事実上の権力として機能するのです*1。いわゆる「環境管理型権力」です。

私たち民間組織に睨まれている、もしくは民間組織に利益を提供できない弱小サークルにとって、環境管理型権力による弾圧から逃れる手段は一つしかありません。インフラへの依存度を落とすことです。
……いや、もう一つ手段があります。それは、インフラに対して声をあげること。

民間で提供するインフラが誰かを弾圧しようとしても、「そのインフラの提供を止める」ことしかできません。通常、民間企業は暴力装置を持っていません*2ので、民間のインフラに対してどのように抗議しようとも軍隊警察は出てきません。

民間組織には市民が組織を審判できる機会としての選挙はありません。逆に言えば、日々の営業成果こそが市民による企業への審判たり得ます。
民間組織による弾圧に対しても、きちんと声を上げていくつもりです。民間対民間の関係に憲法の直接適用はないとしても、民間企業による表現の弾圧が正当化されることは決してありません。

*1:ちなみに、音系同人はまだマシなほう。有料スマホアプリのようにインフラへの依存度を落とせない世界になると、事実上企業が本物の権力として振る舞うことになります。

*2:途上国の一部では企業が軍隊を煽れる構図があるそうですが、さすがに今は除外。現代日本では不可能なはずです

同人と民主主義

もうすぐ参院選ですね。
東京都民にとっては都知事選も近いです。

去年はSEALDsとかの活動もありましたし、一人一人が「民主主義って何?」を考えようと思えば、きっかけ自体は皆さんあったんじゃないかな?と思います。

同人x民主主義で、私から言いたいことをまとめておきます。

  • 民主主義において、通常は「主権者は国民」です。イギリスのEU離脱を国民投票で決議しようが、トランプ大統領を当選させようが、*1すべては主権者、つまり国民の判断です。なので私たちを含めた市民一人一人が民主主義の担い手なのを忘れないでください。
  • いまはSNS時代で国民一人一人が必ずしも思慮のもととは言えないような国民の意見を直で見られる時代。自分たちの意見で社会が動くこともありますし、他人の意見で社会が動くこともあります。
  • こういう時代において、自分たちの活動を社会に認めてもらうために一番大切なことは、自分たちが何をやりたいか、そして自分たちが他の人たちに害をなさない、ということを多くの人から納得してもらうこと。
  • とはいえ私たちオタクの発信力は必ずしも強くない。どうすればいいか?国会議員、都道府県議員、市町村議員を味方につけること。
  • 必ずしも多数派政党所属でなくても、議員一人一人の力は大きいです。議員が認めるということは、とりあえず社会の枠組みに入れてもらえるということ。自分たちの活動を、正しく議員に届くような形でアピールしていきましょう。

*1:ヒトラー政権の増長を招こうが!

R18を買うための身分証明話:いつものアレ

さて、こんな興味深いツイートが流れてきました。

 基本的に「全員が写真つきIDで身分証明」ってのはひとつの成立しうる像ですし、それが悪いとは言いません。

ですが、いくつか気になることがあります。

  1. 全員(明らかにO18を含む)に対して身分証明を求めることの妥当性
  2. 写真付きIDを持たない人への対応
  3. (ついでに信頼度の低いIDは受け入れて良いのか?)
  4. クレジットカードの年齢認証問題

1つめ:本当にそれが必要とする社会的規範はまだ存在していないと思う(以下「思う」が連発します)ところです。全員に身分証明を求めるという運用を非難できる類の話ではないと思いますが、本当にそれが妥当な姿なのか?
といいつつ、もし「この人明らかにO18だよな」→実際はU18だったとなると、問題になるのは明らかです。類似事案はこれ。

digital.asahi.com

なので、「全員に証明を求めます」は一つのやり方としての問題提起でアリかなー、と思ってもいいのかな、と。
なお、「ふだんからお付き合いある友達で、何らかの理由でO18であることが分かっている人」には免除、ってのは普通にOKです。銀行絡みでは確かNGですが、住民票取得あたりの身分証明は法的にもこれでOKな枠組みがあります。

2つめ:写真付IDを持たない人への対応。

「社会人は写真つきIDを持っていて当たり前」って言いますが、それは事実にかなり反します。公共でしばしば使われる写真つきIDというと免許証、パスポート、住基カード/マイナンバーカードでしょうが、免許証の普及率ってそんなに「持っていて当然」と言えるほど高くないです。東京都だと70%切ってます。*1パスポートは言うまでもなくで、東京だと4割くらい。ざっくり見ると(1-70%)*(1-40%)=18%なので、だいたい2割くらいは「パスポートも免許証も持っていない」人がいる計算になります。
住基カード/マイナンバーカードは現在発給数ヶ月待ちでしたっけ?住基カードの普及率はわずか5%なので、18%を埋めることは「現実問題として」できていません。マイナンバーカードも似たような結果になるでしょう。

非公的な身分証だと社員証や学生証が挙げられています。学生証はともかく、社員証って最近生年月日入ってないのが増えていませんか?個人情報保護のリスクから、生年月日を外す傾向が強まっているようです。なのでこれはそもそも年齢証明に使えない。TASPOは本質的に年齢認証に使うツールですし比較的普及してますがこれでも国民の1割弱なので、18%を埋めきれていません。

3つめ:信頼度の低いID問題。

TASPOって十分な信頼度持っているのでしょうか?
かつて、「信頼度の低い手段で本人確認をした」結果問題が発生して立件、という事例があるようで、そのときの判決では「信頼度の低い手段では、本人確認をしたとは言えない」というレベルで一刀両断されていた記憶があります。
もちろん文脈にもよりますから一概に言えるものではありません。立件された事例は、少なくともR18同人誌よりは高いレベルの本人確認が求められる性質のものでした。

なのですが、「TASPOで年齢確認した」が法的な現場でどこまで通るものやら。……とはいえ、これは実際に立件されてみないとなんとも言いようがない的事案か。

口頭の嘘表明や、コンビニの場合「嘘のボタンを押下」的事例をどう見積もるか?という問題にも繋がります。

4つめ:クレジットカード問題

 まあこのへんの話で。

プラス、普通のクレジットカードだとU18が持てないという保障はない(家族会員で留学絡みだと可能)ので、実は年齢認証にも役立ってません。(U18が持てる枠組みを作っていない赤ブーブーのカードはその意味では有効なんですが……)

ただし、この件は赤ブーブーのカードやゴールドカード関係ならばサークルの一存で解決可能。「クレジットカードによる年齢証明の場合、クレジットカード決済での購入に限りお受けいたします」で終わります。いまどきはSquareとか楽天スマートペイのおかげで同人サークルレベルのクレジット導入簡単ですし。
「写真つきID, もしくは写真なしID + クレジットカード決済で受け付けます」なら一つの形として機能しうるのかな……?それはそれで厳しすぎる気がしますが。

PiOの場合

 こんな話がありますが、「身分証明書等による~」と「クレカ確認NG」は必ずしも結びついていないはずでは……。身分証明書ですからね。*2

 

*1:ちなみに生活保護の文脈で「持っていて良い」とされる耐久消費財の基準が保有率70%だったような。つまり東京都だと免許証は生活保護受給者には持たせられない?という暴論が可能になるレベル

*2:原文を読むと身分証明書「等」を公的発行のものに限っていたりしたら、その時点でアウトです。なのでこれは本来原文読むべき。……なんですが、逆に言うとPiO開催だと全数年齢確認を求めている、とも読めるな……原文読まなきゃアカンやつか?

ヘイトスピーチへの反対x表現の自由x同人

この手の話をすると燃える、ってのは脇に置いて。

まず、ヘイトスピーチが良いものか悪いものかといえば明確に悪いものですし、反人道的なものである、という理解を前提に置きます。
一方で、ヘイトスピーチへの糾弾に法的な裏付けを与えた瞬間「表現の自由」とのバッティングが起きることも認識しています。例えばヘイトスピーチに表現の自由を与えるなら法的に糾弾できなくなるという話ですし、逆にヘイトスピーチを表現の自由の枠外にした場合「ある特定の表現を自由の枠外に追い出す仕組み」はおそらく政治的に悪用可能です。なので、ヘイトスピーチの排斥は、おそらく法的な裏付けを持たない形でやる必要がある、ということでしょう。

もし私がこういう宣言をした場合、同人界隈からはどのくらい歓迎されるのでしょうか?

  • ヘイトスピーチ、ヘイトクライムの定義として、人種差別撤廃条約による定義を私はひとつの最低ラインとして信じます。これが差別の全てではないとしても、このような差別は許されてはならない。
  • 私はヘイトスピーチ、そしてヘイトクライムを許しません。
  • ヘイトクライムは(その他の性犯罪を含む各種犯罪を含めて論理は同じなのですが)犯罪である以上取り締まられないという構図が本来はおかしく、もしヘイトクライムに対する取り締まりが(そのような犯罪を起こさない、というインセンティブが成立しない程度に)適切かつ十分に行われていないとしたら、警察の怠慢を批判します。
  • ヘイトスピーチに対しては法的な裏付けを持った批判が困難だとしても、私は人道として批判します。
  • そのため、ヘイトスピーチを振りかざす人とは、私は(同人におけるそれを想定して)クリエイターとしての仕事をしません。私にとって同人は本職ではないからこそ、同人ではより理想を追求する立場を取ります。
  • また、私が主催するイベント、主導的な立場で参加するイベントでは、ヘイトスピーチを許しません、ヘイトスピーカーへの場の提供を行いません。
  • 日本の法制度では暴力団に代表されるような反社会的勢力に対するこの手のアプローチが要請されていますが、ヘイトスピーカーに対しても同様のアプローチを取ります。
  • ただ、一方で人は悔い改められる生き物でもあります。「主の祈り」にはこうあります:「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」差別主義者が心を改めたのであれば、(当然継続的な監視で裏付けられることを前提として)未来に向かって私は元・ヘイトスピーカーを許します。
  • 嘘をつくことは許されないという立場から、「悔い改めた」と言いながらヘイトスピーチやヘイトクライムを続ける行為は、単純なヘイトスピーチやヘイトクライムよりも罪が重いと考えます。

皆様のご意見をお伺いしたく。

以下に意図をたたんで追記していきます。

“ヘイトスピーチへの反対x表現の自由x同人” の続きを読む

社会(?)を騒がせたことに対する謝罪って?

世の中で騒ぎになっている、これ。

そりゃ確かに騒ぎになればいろんなところが余計にリソース消費するハメになりますよ。だけど、本質的な間違いはどこだ?という話でもあります。
社会(?)を騒がせたことが謝罪に値するとすれば、「何も違法ではない、なにも間違っていない行為」に対して意図的に周囲が騒ぎ立てることで謝罪を「正当に要求する」というハックさえ可能になりますよね。

まあ、大阪の件では根本の女性蔑視が既に論外なので、その発言を理由に謝罪すればいいんですけどね。

二次創作の自由を考える

確実に叩かれる系な意見表明なのは分かってますし、これ類似の話では歴史上巨大企業が本気で陰謀ぶっ放した事例がある話なんですが、ひとこと。

www.voca-gene.info

この件。私も併催のSDFイベント(もう恐)の売り子で会場にいました。
で、朝からタイムラインが京都のボカロ合同でいろいろ沸いてて、何事!?と思ったわけですが。

表層的な話をするなら、多分議論の枠組みはこんなところ。

  • ボカフェスは「何に対して」ピアプロリンクの申請を出した?→イベント全体?それともイベント内部の1コンテンツ?
  • イベント全体に対してピアプロリンクを申請する行為自体はある程度想定されているらしい。
  • イベント全体がピアプロリンクを申請した場合、イベント内部で頒布されるモノについてもピアプロリンクの規定に従っていることを表明する意味になるのか?
  • 普通に考えたら当該申請はイベント内部の1コンテンツに対して申請を出した記述と読み解くのが妥当だよな?
  • その場合、主語はピアプロリンク未申請のボカロイベント。そういうものは存在して良いのか?ボカロ界隈における「黙認」の現状はどうなっている?
  • ボカジェネの主張に従い「イベント全体に対して申請を出した」と仮定した場合、そもそも「イベント全体で権利的に問題のある作品は頒布されない」という約束だと見なすべきなのか?現実的にそれは可能なのか?*1

で、評価。

この件、個人的にはクリプトンが全ての悪手の原因だと考えてます。
クリプトンは権利者である以上、公序良俗に反しない範囲で権利の利用に対してありとあらゆる制限を課すことができます。それは法に定められていることであり、国会を通さずに外部第三者が曲げられる話ではありません。なので、私も「クリプトンが全ての悪手の原因だ」という以上のこと、例えば法や規定を無視した行動はできません。
ですが、やはりクリプトンの権利の運用には問題があると言わざるを得ません。ややこしい権利規定というのは、つまりオープンではない、ということです。言い換えると、自由ではない、ということ。
今回の問題は、クリプトンのややこしい権利規定が元で不公平感を生み出してしまったことが発端だ、という理解です。

ひとつの例を挙げます。Linuxは自由に権利を使えるソフトウェアです。このような自由なソフトウェアのことを、「オープンソース」と言ったりします。
Open Source Initiativeという組織が「オープンソース」の定義を明確にしています。そこには「使用分野に対する差別の禁止」という条項が含まれます。例えば「軍事用途に使うことは禁止」しているソフトウェアがあるとしたら、それは自由ではありません。
コンテンツ産業で、「軍事用途まで含めて自分のコンテンツは自由に二次創作して良い!」と言い切れるクリエイターってどれだけいるでしょうか?多分そう多くはいないと思います。米軍や自衛隊、その他自由主義圏の軍隊が使うだけではなく、「軍事用途の自由」ってのはロシア軍やシリアのアサド政権軍、果てはアルカイダやISISといった組織にまで自由を認めるということですから、難しいのは分かるのですが、だからといって制約してしまっては既に自由ではないのです。

クリプトンもそういうことです。細かい制約を課している自由はそもそも自由ではありません。しかも、クリプトンの自由からはみ出す作品に対してきちんと取り締まりがされているかというとそんなことはなく、ショップにボカロ二次創作なんかいくらでも転がってますし、ボカロR18が存在しないって発言は「三店方式は存在しない」と同等のポジショントークでしかありません。そして、実効力のないルールには、混乱を生み出す力はありますが、社会を広げる力はありません。

二次創作を認めるのであれば、私自身の見解としては可能な限り広い範囲の自由を認めていく戦略が良いと信じています。
今回のボカジェネ vs ボーパラ事案は、もちろんボカジェネ主催の悪手がトリガーではありますが、真の通奏低音はクリプトンがコントロールされた「自由」*2だけを社会に対して認めていることにあるのでは、と考えます。

 

*1:建前上は多分可能で、特にエロ界隈の文脈だとほぼ同種の取扱いを実効力のある形で実現しないと怒られるのも事実なんですが

*2:それは自由ではなく、例えば2016年のNHKが享受している『報道の自由』と同類のものなのですが