私にとっての表現の自由

さて、選挙まであと一晩ですね。

この選挙は冗談抜きに「民主主義国家・日本」の未来を占う重要な選挙と考えてます。で、実際に起きることは民主主義の終焉、と。とはいえ全世界的にもトランプやbrexitで起きてはいるので、結局現行の民主主義の実装も色々ヤバかった、というだけの話なのかも。

それはそうと、表現の自由話。
当然選挙の争点としても上がってますし、実際に「表現規制を訴えたほうが、表現の自由を訴えるよりも票になる」と言われている現状です。ただ、本当に政府「だけ」が表現弾圧の主体なのでしょうか?

私が同人活動を10年ちょっとやってきて、2度ほど同人活動を続けられないかも?と真剣に思う脅威がありました。その2つは、どちらも政府ではなく民間の動きでした。

民間による表現弾圧には何らの暴力装置も使われませんし、裁判所も出てきません。国会やその他議会で何の決議をするわけでもありません。ただ淡々と民間組織が特定作家の表現の場を奪うだけです。
民間対民間の世界には契約自由の原則があります。民間組織が誰かに表現の場を提供するかどうかは、最終的にはあくまで民間組織が決めるもの。だから、インフラを握った組織は政府と無関係な民間組織でも、事実上の権力として機能するのです*1。いわゆる「環境管理型権力」です。

私たち民間組織に睨まれている、もしくは民間組織に利益を提供できない弱小サークルにとって、環境管理型権力による弾圧から逃れる手段は一つしかありません。インフラへの依存度を落とすことです。
……いや、もう一つ手段があります。それは、インフラに対して声をあげること。

民間で提供するインフラが誰かを弾圧しようとしても、「そのインフラの提供を止める」ことしかできません。通常、民間企業は暴力装置を持っていません*2ので、民間のインフラに対してどのように抗議しようとも軍隊警察は出てきません。

民間組織には市民が組織を審判できる機会としての選挙はありません。逆に言えば、日々の営業成果こそが市民による企業への審判たり得ます。
民間組織による弾圧に対しても、きちんと声を上げていくつもりです。民間対民間の関係に憲法の直接適用はないとしても、民間企業による表現の弾圧が正当化されることは決してありません。

*1:ちなみに、音系同人はまだマシなほう。有料スマホアプリのようにインフラへの依存度を落とせない世界になると、事実上企業が本物の権力として振る舞うことになります。

*2:途上国の一部では企業が軍隊を煽れる構図があるそうですが、さすがに今は除外。現代日本では不可能なはずです