反表現規制運動や都知事選の内幕に見る民主(=立憲法治)主義と「民主」主義

ちょっと面白い題材があったので、紹介してみます。
相変わらずの表現規制ネタではありますが。

まずは、コミケの事実上の顧問弁護士として知られる山口弁護士のツイートから。

このツイートを見たとき、私の第一印象は「はぁ?」でした。
山口弁護士としては何らかの理由があるのでしょうが、その理由は何なのか?*1そして、誰かに「表現規制運動(の表向き)から撤退を強いる」ことができるような理由ってのはどんな話なのか?

というわけで、疑問を感じたのでこんなツイートを出してみました。

 その結果、いくつかの経路から情報が入ってきました。情報自体の意味合いはともかく、客観的事実としては十分に追跡可能な内容でしたので、誰かが嘘をついているのでなければおそらく正しい情報だったと考えます。

この時点で「山口弁護士がなぜ上記のツイートをしたか」はクリアカットにわかりましたが、にしても議論ややこしいな……と思ってたら、当事者からさらなるツイートが。

 これで 得られた情報の裏付けが取れた&それ以上に追加の情報が得られた、と考えます。

そもそも桶川ストーカー事件の被害者父親への名誉毀損に関わった時点で人格としてどうなのか?という話はありますが、それは過去のこと。脇道ではありますが、新約聖書:ヨハネの第一の手紙1章9節にもこうあります。(口語訳より引用)

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 主イエスの血、全ての罪より我らを潔む。」 

 ただ、同時にこの件についてはこういう側面もあります。

法律的には罪を償ったと言えるでしょう。ですが、この側面を否定することも難しいです。で、「なぜ」表に出て政治活動をやるべきではないという議論になるか、というと。

これは過去にあるジャーナリストから教わったのですが、「政治的なアクションは、常に身が綺麗な人が行わなければならない」と。質問や会話を通じて教わった趣旨としては、こんな話でした。

政治的な発言に対する反論と、発信者(活動者)の人格的な信頼を失わせる攻撃の間には、市民的には区別がつかない。だから、後者の攻撃を受けかねない人が政治的な発言に関わっていると、その発言の説得力がなくなってしまうリスクが高い。

だから、政治的なアクションを起こす人はクリーンでなければならない。問題を抱えていない人でなければならない。

おそらく今回の一連の問題もそういうことでしょう。この思想の根幹は全くもって法治主義的ではありませんが、市民一人一人の考えを忖度した結果とは言えます。その意味でこの手の考えは「民主」的*2ではあります。

一方、少なくとも投票をベースとした選挙で当選するかどうかに限って言えば、完全に多数決主義で物事が決まります。選挙ってのは民主主義のインフラと見なされることも多いですが、多数決主義との親和性も高いです。その結果、非民主的なことが起きる可能性もあります。*3

選挙という仕組み自体が、(時には多数決を無視しなければならないこともありうる)政治の世界と多数決との間でのすり合わせを支えるインフラなのかもしれません。

脇道にそれて政治家/政治活動者のクリーンネスといえば、こんな話題もありました。

otokitashun.com

これが実現できれば十分に理想だと思いますが、この理想を支えるためのインフラが現在の日本にはおそらく欠けています。
端的に言ってしまえば、中立を装わない大規模マスメディアと、それらのメディアが発信する情報を第三者として評価するファクトチェックの仕掛け。

ただ、これも欠けているとはいえ、だんだん立ち上がりつつある様相も見て取れます。中立を装わないメディアといえば、例えばこれ。

なぜ都知事選は繰り返すのか――小池の影法師・猪瀬直樹の研究(水道橋博士)|ポリタス 参院選・都知事選 2016――何のために投票するのか

そしてファクトチェックの実例がこれ。

 

元の話題に戻ると、山口氏 vs 青木氏の件について私自身はこう考えます。

  • コミケ準備会では珍しい事案だが、小規模な即売会主催サイドからは「自分たちにとって都合の良い表現についてだけ、表現の自由が欲しい」という思想の発露を感じることがしばしばあります。この件は、コミケ準備会といえども末端レベルではこの思想と無縁ではないことを改めて裏付けるエピソードとして読み解きます。
  • 山口氏が青木氏の反表現規制運動に対して良く思わないことには最低限の共感はします。が、どんな理由があろうと、山口氏はああやって表に出て他人の活動を攻撃すべきではない。その点で山口氏の活動は決定的な失点を踏んだ。もしああいう話をしたかったら、裏でやるべき。
  • 一方で、青木氏の反表現規制運動が真に機能するかというと、やはり上記の理由から何かしらの壁が立ちはだかることはありそう。とはいえ、これは活動が実を結ばない可能性への理由付けであって、彼の反表現規制運動そのものを批判する理由ではあり得ない。
  • 山口氏と青木氏の反表現規制運動、どちらに「本質的な批判を寄せるポイントがあるか」というと、上記の理由から、現状では前者。
  • 青木氏のやったとされること(=桶川ストーカー事件の一連のアレ)を良いこととは思わないけど、罪を許さないというつもりはない。彼は適切に謝罪し、かつ社会との関係性においても罪を償い終わっている。
  • どっちみち、私自身が彼らどちらの活動ともガッツリ組んで協働することはない。自分は自分なりに表現規制について考えて、自分なりの動きをしたい。その段階で彼らと同じアクションを起こすなら、特定のアクションについて効率性や規模を重視して誰かと一緒になることはありうるけど、誰かのために貢献するという意識ではない。

*1:前半戦では合理性があるかどうかではなく、「山口弁護士がどう考えているか」こそが重要です。

*2:ここでカッコ付きの「民主」とは、ほぼ多数決主義とイコールです。極端なことを言ってしまえば、特定民族の絶滅を多数決で議決すれば実行する、というやつです。

*3:本記事執筆直前くらいの時点で、諸外国に比べれば十分にクリーンかつ民主的に行われる選挙である都知事選をめぐる調査の結果在特会の元代表として知られる桜井誠氏に対する20代支持率が鳥越俊太郎氏への支持を上回っていること自体が、必ずしも選挙が民主主義的な結果を示すとは言えないことの証左かと考えます。