「演奏会に来て自分たちの演奏を聴いてもらう」というのはどういうことなのか。
改めて考えてみる機会をいただけました。
発端はニコニコオーケストラの管理人、@KohMei1012 さんのこのツイート。
いくつかの論点がごっちゃになっているのでこの発言自体は感情的な議論の出発点でいいんですが、論点のコアはオタク楽団が今後避けては通れない話なんですよね。
つまり、「なぜこの楽団を聞きに行くか」。
楽団の演奏を聴くという行為は、動画であってもその分の時間を消費しますし、演奏会ならたとえチケット無料でも交通費や体力、そしてもちろん時間は同じように消費します。ということは、「演奏を聴く」という判断は「何も消費しない」との競争に常にさらされているわけです。
「何も消費しない」というコンセプトを提出したのはクリステンセンの「イノベーションへの解」でいいのかな?
私たちは、消費か無消費かの選択、そして数ある消費の可能性から自分たちの楽団の演奏を選んでもらうべく、まっとうにマーケティングすることが求められています。
私たちは、自分たちの演奏や作品を聴いてほしければ、作品、ブランド、媒体を通じてコミュニケーションし、自分たちの楽団をブランディングし、結果自分たちの楽団に消費を振り向けてもらわなければなりません。
その意味で、KohMeiさんのツイートはまさに正しいです。あえて演奏会という手段を選ぶのは何故?という問いには、答えが必要です。聴き手の時間や消費を自分たちの演奏に振り向けてもらうためには、マーケティングが必要です。そして、同じように、あえて動画という手段を選ぶのはなぜ?という問いに対しても答えが必要です。
さらには、なぜそのような演奏会を、そのようなグループで開催するのか。この問いにも理由が必要です。
KohMeiさんのツイートはお客さんに選択をしていただくまでの間、完璧に正しいです。
ですが、一度私たちの楽団を聴くという選択をしていただいた顧客の皆様に対して、この問いの答えを与える必要はあるのでしょうか?
先ほどまでの問いの前提は、消費をしていただくかどうかの判断というお話。ここからは、消費を決めた人に対してどのような満足を提供できるかという話。
演奏は、本当に自分のため「だけ」の演奏なのでしょうか?
演奏会や動画という文脈によれば、演奏は(自分のため、という要素が捨てきれないとしても)常に会場にいらしていただいたお客様(/一般参加者)、もしくは動画を見てくださっている視聴者のためとして理解されます。
ということは、「自分のためだけの演奏」というのは、演奏会でお客さんがいる以上、そもそもありえないのではないでしょうか?
演奏会にご来場いただけるお客様、もしくは動画を視聴してくださる視聴者の皆さんは、作品・演奏のために時間を、そして金銭その他のリソースを消費し、他の消費の可能性を断ち切って来ていただいたわけです。
彼ら/彼女らが演奏に消費を振り向ける判断は正しかった、良い消費だった、そして消費した以上のものが得られたと感じたのであれば、それで十分ではないでしょうか?
だれにでも、消費する対象を選ぶ自由はあります。お客さんは自由を行使しているのです。
動画であれば、消費を途中でやめる自由さえ容易に得られます。視聴し続けているということは、視聴を続けるという自由を行使し続けているのです。
お客さんに対してはマーケティングが成立した以上、演奏そのものに責任を持ち、お客様/視聴者に届けるものを良いものにしていきたいです。
そこに、満足をお客様に提供できる演奏/提供できない演奏、以外の文脈は必要なのでしょうか?