企画のスタッフ向け情報共有の話

最近、とある企画にお招きいただきまして、ちょっとした作曲を進めています。世に出たらお知らせしますね。

で、企画それ自体を紹介するのはまだ先の話なんですが、今回お招きいただいた企画ではスタッフ向けサイトのコンテンツがとても充実していました。
具体的な内容は守秘義務もあるので書けないのですが、スタッフ向けにあれだけ情報が展開されていれば参加者も安心だろうな、とは思いました。

スタッフに事実をお知らせすることが重要なのではなく、安心感を提供することが重要だと考えると、たしかに形式は大切なんですよね。

私が運営する大人数の企画ではちゃんとしたスタッフサイト作っていきたいなと思います。
redmineベースでタスク管理の仕組みは作っているのですが、やっぱりあれじゃ不足していることも納得できましたし。redmineって現状を明らかにするには強いですが、全体の設計とかは見えにくいんですよね。

過去の振り返り。

えっと、立て続けにもう一本の記事を公開。

2010年春からしばらくの間、精神状態がかなり不安定なことになっていました。今でも以前と同じ安定レベルまで戻ったとは言い切れない状況ですが、ある程度は元に戻ってきました。
というわけで、酷かった時期にいろいろな情報から判断した「思い込み」について、改めて最新の情報をもとに判断のやり直しを進めていきます。

何人かには当時の事情とかお伺いするメールを飛ばすことになると思いますが、暖かくご返答いただければ幸いです。

ルールを守ることの意味

なぜ、社会で暮らしていく上ではルールを守る必要があるのでしょうか?
簡単な話で、「他人もルールを守るだろう」と予測できることには意味があるからです。例えば目の前の横断歩道の信号が青で、交差している車道の信号が赤なら、車はやってこないだろうと予測できるからです。

明文化されているルールと、明文化されていないルール。法的には大きな違いがありますが、予測可能性という意味では違いはありません。
つまり、明文化されていない社会の空気のようなルールも、守ることには確かに意味があります。

というわけで、今後の活動では明文化されていないルールについても極力守って育てていきたいと思います。
織姫オペラシアターを作っていたころ、最初に取り組んだことは「ありとあらゆる明文化されていないルールについて、改めてゼロから考え直すこと」でした。こうすることで新しい社会の仕組みに見合う合理的なルール体系を作ることはできるかもしれませんが、これまで存在した社会からは織姫オペラシアターがやろうとしていることを予測できなくなるわけです。

古い仕組みを守った上で、テクノロジーの力を借りて新しい血を注いでいくことで、同人音楽の社会をもっと面白いものにしていきたいですね。
過去を破壊することだけがイノベーションではありません。

他人を信頼するということ。

こんなニュースを見かけました。

運転免許試験のオペレーションにミスがあり、試験時間を正規の試験より短くしてしまった結果不合格者が続出した、というお話。

 

で、それ自体は「ありそうな不祥事」でいいんですが、対応策。わざわざ試験の開始・終了時刻をセンターに報告させる、という解決策に意味はあるのでしょうか?

単にプロセスを面倒にしているだけだと思うんですうよね。そして、現場の人たちには「おまえらは過去に起こした不祥事が理由で信頼を得ることができない」というメッセージを届けるだけの結果になっています。

 

最低限の信頼もない相手になにかしらの仕事を委ねることはおそらくナンセンスですし、失敗しようものなら余計な害悪を招きます。相手を信頼できていないと、なぜ相手が/自分が失敗したのかを考える前に過去の不祥事と今回の失敗を重ねてしまいかねません。たとえば、例の問題でもそういうことです。

私が完全な信頼を寄せられない誰かさんに創作企画の一部を手伝ってもらって、その誰かさんが何らかの理由で降板したとき、「奴は何らかの意図を持って、私の企画推進を妨害するために降板を演出したのだろう!」という思い込みを導いてしまいます。

 

信頼を作ることはやっぱり大切で、信頼できない人に仕事を委ねてはいけないのだろう、と思います。

間違っていないことと正しいこと、そして前を向くこと

いろいろと私自身アレな事態を引き起こしてきたのは皆さんご承知の通りです。
織姫オペラシアター崩壊なんてのは、典型的なトラブルでしたよね。もちろん正当な非難に値する事象だと考えます。
だけど、相手がトラブルを起こしているから自分が反社会的な手段を使って攻撃して良い、というロジックはちょっとまずいのではないでしょうか?

私への攻撃を正義としてやっているあなたのロジックが正しいなら、あなたのやっている行為も反社会的なので、私はあなたを攻撃する正義を手にしたことになります。実行したら単純に報復合戦スタートで、エスカレートするだけですよね。
もし警察沙汰になった場合、「相手が間違ったことをしているから私は攻撃した!」なんて言い訳は通用しないどころか、状況次第では罪が重くなりますよ。

というわけで、理由があろうがなかろうが、社会的に間違っていることはやはり間違いなのです。単純に相手が間違ったことをやっているから、というだけの理由で正当化はできない。

なので、今後は以前よりも気をつけて間違ったことは避けて行きたいです。それこそが前を向くということの意味なのかな。
何が社会的に正しい行為かを定義することは多分誰にもできませんが、社会的に間違った行為を避けることはできます。

依頼の書き方、もう一度考えてみる。

出所はこちらのツイート。

大切なことだと思います。が、このツイートだけだと分かりにくいところもあるので、勝手に補完してみました。

 

> ・絶対名乗る。

 もちろんHNで構いません。

 というか、「依頼しているプロジェクトと結びつけようとしているあなたの活動名」を名乗るべきです。
たとえば変なHNを名乗ったり、逆にHNしか知られていない人が本名を名乗る、といった行為はほとんど意味がありません。

 

> ・成果物も見せる。

この表現だといろいろ分かりにくいと思います。私自身悩んでいます。
過去に自分の成果物があれば、ということなのでしょうね。

 

たぶんこのへんの考え方があって。

 

●自分が過去に取り組み完成させた成果物
 →プロジェクトリーダーとしてでもいいし、一人の参加者としてでもいいし、どちらでもいいと思います。理想像はポートフォリオサイトのURLかなぁ。

 

●もしそのプロジェクトに既に中間成果物があるなら、中間成果物
 →途中から参加していただくわけですから、現状をお見せするのは大切です。が、秘密保持との関係もあり、何を見せられるか?は慎重に検討すべき。

 

で、「成果物」って表現がわかりにくいかな。IT業界ではよく使う表現なので、元ツイートの人はひょっとしたらそっち系の仕事の経験があるのかもしれません。

 

何らかのインプットを前提に、何らかの作業を行って生み出されたものが成果物になります。なので、たとえば企画書は「自分の企画妄想」を「形にする」作業を経て生み出されるものなので、ひとつの成果物です。
ただ、企画書のようなプロジェクトの中間で生み出される成果物と、プロジェクト全体が最終的に生み出す成果物は峻別すべきという考え方もあって、たとえばPMBOKではそれぞれの概念に delivarable, productという別々の言葉を当てています。

 

> ・ちゃんと連絡先も載せる。

メールアドレスで十分だとは思います。が、「受信できるメールアドレスを載せましょう^^

一番いいのはメールのフッター(署名部分)ですね。署名がちゃんと書いてあって、発信元メールアドレスへの返信で問題ないのであれば、特に「連絡先を別に載せる」必要は感じません。

 

> ・何をして欲しいか端的に述べる。

何がインプットとなり、アウトプットを何にしてほしいか、を書くのが一番わかりやすいですよね。
が、実際依頼する側の立場になると、「なんとなくほわほわしたイメージしかない」場合もあります。そういう場合は、ほわほわしたイメージをできるだけ言語化する、というアプローチでもいいと思います。コンサルティング的な感じ?

 

> ・そのあとに詳細を記入する。

端的→詳細って書き方はわかりやすいですが、その手の構造を持つ文章を書いた経験がないと一朝一夕にできるものでもないし、そんなに大切でもない印象です。
要は分かりにくい表現がダメ、ってこと。

 

> ・報酬については出せる/出せないきっちり書く。

大切ですね!
「用意した金額が十分な報酬でないと、失礼にあたるかも」ということを気にする必要はありません。

 たとえば、「今回のプロジェクトでは全部で○万円用意させていただいております。うち○万円を××と△△への依頼に使うことを考えておりますが、そちらの設定と合いますでしょうか?」という感じでもいいんじゃないかな、と思います。

 

最後にこれ。

 

> ・相手に時間をとってもらってることを意識する。

これは書き方に直結する話ではなくて、全体的な礼儀の話として考えればいいと思います。

現在進行形の反撃2件について

現在、わたしは仕掛けられている攻撃2件について抗議の意図をこめて反撃の用意をしています。
どちらの案件についても、攻撃を仕掛けている当事者に関しては、過去の企画で直接的な関わりで迷惑をかけたことはない、ということを表明しておきます。
なので、あなた方が何らかの正義をもとに攻撃を仕掛けているのであれば、あなた方は完全な第三者です。第三者の攻撃は、正義ではありません。

 

緑坂さんとはとある企画チャット窓でご一緒したことがありますが、私も最終的には被害を受ける側の立場になっており、あの企画の件が理由ならそちらの完全な誤解でしょう。

M3お疲れ様でした。/人との関係とか。

M3、無事に終わりました。
きちんと宣言を頂いたおかげで、当日はテロも起きず。こちら、ちょっとやるべきことが残ってるので(遅くなって申し訳ないです!)、追々片付けていきますね。

作品を手にとっていただきました皆様には、御礼申し上げます。

“M3お疲れ様でした。/人との関係とか。” の続きを読む

末端がやってることに、もっと気を配ってほしい

私は、M3準備会やコミックマーケット準備会を、信頼していません。

もちろん彼らが即売会を形式的に実現し、サークルが頒布して一般が購入する、という枠組みを作る能力を持っていることは事実であり、信頼とかそういうレベルの話ではありません。
ですが、組織としてのM3準備会やコミックマーケット準備会が信頼に値するだけの存在か?というと、以下の理由から「現状ではそうではない」と言わざるを得ません。

 

私がM3準備会を信頼しきれない理由。そして、私がコミックマーケット準備会を信頼しない理由。
ただ一つ、彼らの末端が実行していることと、トップレベルで考えていることが違いすぎるからです。

 

ここで実名/実HNを出すことは控えておきますが、M3準備会のあるスタッフが特定のサークルを同人音楽のコミュニティから追放しようと目論み公に呼びかけたことは、皆さんもご存じの通りだと思います。コミックマーケットのスタッフによる特定のサークルや特定のジャンルを名指しした「あいつらは追放予定/追放済み」という発言も、片手では収まらないほど見聞きしてきました。

ですが、M3もコミックマーケットも、組織として特定のサークル/特定のジャンルを追放しようという考えは原則として持っていないはずです。コミックマーケットは一度だけ追放の決断を下していますが、その一回きりですよね。

コミケをめぐる黒子のバスケ騒動を思い出してください。「特定のジャンルを追放する」という考えがコミックマーケット準備会にあるとしたら、黒子作品での参加見合わせをお願いする決断は苦渋の決断ではなく、日常の決断になるでしょう。現実にはそうではなかったですよね?
なのですが、私たちサークルや一般の参加者から見たら、まず出会うスタッフは末端のスタッフです。トップや組織全体の意識が目の前に立ち現れることはそうそうありません。末端の人たちが変なことをやっている状態で、組織全体が信頼を得ようというのは厳しいのではないでしょうか?

 

コミックマーケット準備会は、いまや表現の自由の擁護に向けて政治的なアクションを起こしていることが公にされています。ですが、末端のスタッフが特定のサークルやジャンルの追放を口にする状態を放置していると、政治的アクションに対しても「自分たちが好きな、だけど一般には反社会的とされる内容の作品を守りたいだけの理由で表現の自由を言い出している」と思われかねません。

表現の自由はあらゆる作品に適用されるからこそ、コミックマーケットで頒布されるR18な作品に対しても表現の自由が適用されるのではないですか?準備会にとって好ましい作品だから適用される/好ましくない作品には適用されない、というものではないはずです。

もし準備会の主張が「好ましい作品について表現の自由が必要だ」ならば、自民党が多数派をしめる国会で「私たちが好ましくないと思う作品には表現の自由はない」と議決してしまえば終わりですよ。

 

M3準備会やコミックマーケット準備会がやっていること……言い換えます。あなたがたの「末端のスタッフ」がやっていることは、そういうことです。
あなたたちにとって好ましい作品や作家にのみ表現の自由を主張し、そうでない作品や作家から表現の自由を剥奪しようとしている行為です。

 

自分たちの表現の自由を、もっと真剣に考えてください。

あなたたちが組織であるなら、組織全体が奉じる重要な思想をきちっと末端まで行き届かせてください。

 2014/02/18修正: 一部事項にソースへのリンクを追加しました。

オタク系楽団の演奏会の意味って、どういうことなのだろうか?

「演奏会に来て自分たちの演奏を聴いてもらう」というのはどういうことなのか。
改めて考えてみる機会をいただけました。

 発端はニコニコオーケストラの管理人、@KohMei1012 さんのこのツイート。

 

 

 いくつかの論点がごっちゃになっているのでこの発言自体は感情的な議論の出発点でいいんですが、論点のコアはオタク楽団が今後避けては通れない話なんですよね。

つまり、「なぜこの楽団を聞きに行くか」。

 

楽団の演奏を聴くという行為は、動画であってもその分の時間を消費しますし、演奏会ならたとえチケット無料でも交通費や体力、そしてもちろん時間は同じように消費します。ということは、「演奏を聴く」という判断は「何も消費しない」との競争に常にさらされているわけです。
「何も消費しない」というコンセプトを提出したのはクリステンセンの「イノベーションへの解」でいいのかな?

 

私たちは、消費か無消費かの選択、そして数ある消費の可能性から自分たちの楽団の演奏を選んでもらうべく、まっとうにマーケティングすることが求められています。

私たちは、自分たちの演奏や作品を聴いてほしければ、作品、ブランド、媒体を通じてコミュニケーションし、自分たちの楽団をブランディングし、結果自分たちの楽団に消費を振り向けてもらわなければなりません。

 

その意味で、KohMeiさんのツイートはまさに正しいです。あえて演奏会という手段を選ぶのは何故?という問いには、答えが必要です。聴き手の時間や消費を自分たちの演奏に振り向けてもらうためには、マーケティングが必要です。そして、同じように、あえて動画という手段を選ぶのはなぜ?という問いに対しても答えが必要です。

 

さらには、なぜそのような演奏会を、そのようなグループで開催するのか。この問いにも理由が必要です。

 

KohMeiさんのツイートはお客さんに選択をしていただくまでの間、完璧に正しいです。

 ですが、一度私たちの楽団を聴くという選択をしていただいた顧客の皆様に対して、この問いの答えを与える必要はあるのでしょうか?

先ほどまでの問いの前提は、消費をしていただくかどうかの判断というお話。ここからは、消費を決めた人に対してどのような満足を提供できるかという話。

 演奏は、本当に自分のため「だけ」の演奏なのでしょうか?

演奏会や動画という文脈によれば、演奏は(自分のため、という要素が捨てきれないとしても)常に会場にいらしていただいたお客様(/一般参加者)、もしくは動画を見てくださっている視聴者のためとして理解されます。

ということは、「自分のためだけの演奏」というのは、演奏会でお客さんがいる以上、そもそもありえないのではないでしょうか?

 

演奏会にご来場いただけるお客様、もしくは動画を視聴してくださる視聴者の皆さんは、作品・演奏のために時間を、そして金銭その他のリソースを消費し、他の消費の可能性を断ち切って来ていただいたわけです。

彼ら/彼女らが演奏に消費を振り向ける判断は正しかった、良い消費だった、そして消費した以上のものが得られたと感じたのであれば、それで十分ではないでしょうか?

 

だれにでも、消費する対象を選ぶ自由はあります。お客さんは自由を行使しているのです。

動画であれば、消費を途中でやめる自由さえ容易に得られます。視聴し続けているということは、視聴を続けるという自由を行使し続けているのです。

 

お客さんに対してはマーケティングが成立した以上、演奏そのものに責任を持ち、お客様/視聴者に届けるものを良いものにしていきたいです。

そこに、満足をお客様に提供できる演奏/提供できない演奏、以外の文脈は必要なのでしょうか?