浦賀船渠に学ぶ、適切な責任の大きさの判定について

トラブルを起こした以上、責任を取らねばならない、というごくごくナイーブな考え方を前提としても、トラブルの全結果について一人が責任を負うことが妥当とは言えない場合はいくらでもあります。
一人一人が負うべき責任、リスクはそれぞれ判定されるべきです。

という前振りをもって、とりあえずこちら。

 

 もうちょっとパラレルな話をしてみましょっか。

同じく20SPとか40SPとかの規模を想定します。遠征開催でもない限り、おそらく主催者は前日まで家で作業に追われます。
さて、前々日に家が誰かによって放火されて、準備が全部灰燼に帰しました。たぶん開催は困難になるでしょう。放火への対応もあるし、アイテム類もいろいろと必要ですよね。もしくは、前々日あたりに主催が交通事故に遭って動けなくなりました、でも構いません。たぶん開催は困難ですよね。

こういうときに、「主催は開催できなかったのが悪い!」と言えますか?

もしくは、震災を想定しても構いません。3/11金曜日に震災発生, たしか三陸地区でも即売会が複数企画されていました。当然全部中止です。「主催は開催できなかったのが悪い!」と言えますか?

そう、極端な事例だと、「主催が悪い!」と言うとしても責任は極度に小さいものとなります。一方で何の理由もないのに主催者が開催直前に開催を投げ出す事例を考えれば、この場合「責任の100%は主催にある!」になるのは明らか。……ということは、本来は極端と極端の間のどこかに答えがあるはずです。主催がどれだけの責任を負うべきか。

今回は刑事告訴に至ったとおり、きわめて異常な形での活動妨害がありました。通常の人災による開催中止事例に比べて、主催が負うべき責任は小さいものになる(先ほどの放火の事例とパラレルです)と考えるのは自然でしょう。

–ここから追記–

で。なぜ一人一人を「つるし上げ」ないといけないのか。もちろん、プロパガンダに乗っかった人を糾弾する必要は多分ありません。プロパガンダに騙されることは良いことではありませんが、責任を取るのとは全くの別問題。
ただ、ひとつ重要な論点があります。誰がどれだけの責任を負うべきか。適正な責任配分のためには、ひとりひとりがトラブルに対してどのように寄与したかを明らかにする必要はあります。主体的だったのか、従属的だったのか、巻き込まれただけなのか。問題にどこまで気づいていたのか。
それを考えるために、一人一人の背景を追いかけることには確かに意味があるのでしょう。……ですが、司法がやるべきことでは?という気がしなくもないんですよね。アマチュアが個人でやっていいことか?というと疑念も残ります。

–ここまで追記–

最後に。

 この考え方、そもそも現代社会では成り立っていないと考えます。「仲間内のルールと道徳で可能な限り解決し、できるだけ司法に頼らない」をやってきた結果が例えば教育界隈で、大津いじめ事件とかのまずい事例が山ほど積み上がっています。

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