音系同人世界への長期的課題

つらつらと。

  • 表現活動が認められる条件を明確にする
  • 企画を失敗(中止)させないためのインセンティブの検討
  • はたして誰が権力者になるか?

表現活動が認められる条件

現状の社会ならば「表現の自由。以上。」で終わります。なんだけど、表現の自由にしても何にしても、自由権が長期的に認められるという考えは成立しないような気がしてましてですね。
自民党の「暴走」って言うけど、じゃあ民意は基本的人権を容認するのか?というと、容認しないわけですよ。天賦人権説?ばかばかしい。あんな古めかしい絶対権力を前提とした思想なんて、カビが生えた古い世界相手ならともかく、現代には適用できませんよ。*1

とはいえ、絶対権力がどこかに存在してその権力が認める範囲で表現が認められるという思想も我々が70年前に通過して捨ててきた考えで、それを取り戻すのは逆に筋が悪いと思うんですよね。それこそ絶対権力なんか立ち上げたら、自由主義思想との二元対立が再開して、絶対権力は敗北します。*2

となると、どのような条件が満たされれば表現活動が認められるのか。民主的に考えると、「みんな=多数派が認めるような表現だけが正しく、そういう正しい表現をしている限り表現する権利が認められる」というアプローチにたどり着くんじゃないかな、と。*3……じゃあ、「みんな」って誰よ?「みんな」が認めない表現に対してはどういう形での懲罰が可能?*4

企画を失敗(中止)させないためのインセンティブ

なんで企画中止が疑心暗鬼を生み出すかというと、企画を中止した企画者に社会的制裁が加えられないからですよね。*5

てわけで、何かしらの社会的制裁を制度化する必要はあると思うんですよ。一応刑罰の形を取る制裁だから、デュープロセスは必要かな。*6……誰がデュープロセスを具現化して、誰が制裁を加えるの?*7

果たして誰が権力者になる?

てわけで、自由主義が失われている場で民主主義を実現するには、結局民主的なプロセスを主導する暴力装置としての権力者が必要なんですよね。

誰が権力者になればいいんだろうか。

 

*1:これは皮肉じゃなくて大まじめな話。自由主義思想が絶対王政の類いを世界のほとんどから追放してしまった結果、絶対王政=旧来の悪に自由主義思想=新しい善を対置する二元論的な対立構造が機能しなくなったわけで、逆に言えば「天賦人権説なんかばかばかしい」とばかりに自由主義思想=旧来の悪に対する新しい善を考えざるを得ない時代ではないかな、と。言い換えれば、基本的人権をベースとする自由主義自体がアーキテクチャ、環境管理型権力として一種の絶対権力的な役割(=打倒されるべき何か)を果たしているとも言えます。

*2:それこそフランス革命再びというやつで、同じ構造があれば得られる結果は同じです

*3:別に多数決に頼る必要もなくて、「みんなが納得する答えが必要だ」というやつです。少数のクレーマーがいたとしたら、彼らの考えを尊重しなければならない、という民主主義ですし、現代社会で起きている価値の相対化の動向にも乗っかっているつもり。

*4:つまり炎上ってやつで、誰も暴力装置持ってないから、暴力装置に頼らない私刑しか成立しないんですよね。少なくとも現代の日本社会において警察に代表される暴力装置が民主的に機能していないのは明らか。自衛隊?災害以外で実感ないでしょ。

*5:過去に制裁を加えようとした人はいましたが、アレは制裁というよりは単にのび太君がジャイアンに立ち向かってたたきのめされただけという気がしなくもなく

*6:制裁される側が納得しないと、例えば社会の場がこうなりますよね。

*7:市民が三々五々加える私刑がデュープロセスを満たすのは、普通に考えたらあり得ないので。