前提として、われわれが高校の公民で学び当たり前の理想像と考えている「基本的人権」は17世紀のホッブスの仕事から立ち上がった概念*1で、実質的に市民が基本的人権を享有し、基本的人権の恩恵を得るようになったのは18世紀のフランス革命や19世紀のアメリカ南北戦争、そして日本では19世紀の明治維新&不平等条約是正および20世紀の第二次世界大戦敗戦&GHQ占領(八月革命)によって確立された社会によるものだ、という認識を置いておきます。
これらの認識からほぼ明確な通り*2、近代においては人権は王権をはじめとした絶対権力への抵抗として立ち上がってきました。そして、21世紀の現代(=ポストモダン)においてはほぼ全世界で絶対権力が鳴りを潜めています。この成果自体は、一連の人権思想の勝利と考えて良いものでしょう。
一方、人権思想の勝利に伴い絶対権力が壊滅した社会*3では前提たる絶対権力への抵抗という構図自体が失われてしまっているのも事実で、おそらくポストモダンにおける人権思想の出発点はここなのかな、と。
ポストモダンにおいては絶対的な敵が存在しない*4わけで、権利行使自体の正当性も単純なものではあり得ません。……というか、そもそも基本的人権の絶対性自体が大きな物語になりかねないわけで、基本的人権自体も改めて考え直されるべきなのかな、と。
以下推測なので折りたたんでおきます。
おそらく、未来における基本的人権は以下のようなものになるでしょう。
大きな物語が失われた世界では、シュミットの説くところによる「政治」をひとつにまとめることもできないはずです。すなわち国家の存在意義さえも再考されるべき。一方、国家の構図を完全に解体するわけにも多分いかないので、「国家」の存在意義自体が再度の社会契約によって再構築されることになるでしょう。*5再度結ばれる社会契約は、おそらく国家(的組織)対個人ではなく、個人間の総体によって結ばれるものです。そのような状況においては、基本的人権もおそらく再度の社会契約によって再認識されるものでしょう。
契約とは意思の一体化です。*6となると、契約には熟議が欠かせないように思われます。この構図を基本的人権にまで広げると、人権の享有および行使は当然に(自然に)認められるものではなくて、熟議による是認を経て初めて認められるものになるのかな、と。
日本の実社会では、既に基本的人権の行使に対する不満が渦巻いているように思えます。確かに憲法の枠組みでは基本的人権(生命権とか自由権とか平等権とか)が規定されていますが、生活保護バッシングのような現象を見る限り市民がそれら基本的人権の行使をお互いに認容している状況にあるようには見えません。
もはや現実的な問題として、近代的な人権思想は役割を終えつつあるように思われます。*7生活保護に代表される生命権や表現の自由についても、熟議を踏まえて市民に行使・享有を納得してもらい、是認してもらわなければならない、という状況に入りつつあると考えます。そのためには、特に他者に対して迷惑を与えかねない*8類の権利行使には周囲に対する適切な礼儀が伴う必要があるでしょう。ましてや、自分たちが反社会的行為を是認するグループでありながら他者には自分の権利の行使を認めるように要求する、というのはもはや成り立ちません。*9
一方、ある程度の自由がなければイノベーションは成立せず、そして熟議による承認を求めるモデルはしばしばイノベーションを阻害する方向に働くことも明らかです。何らかの形で一定の箱庭を規定して、その範囲で自由を認める必要もあるのでは、と予想してみます。*10
*1:現代的な内容の自然権の概念自体もホッブスの整理に端を発するものです
*2:日本ではやや事情は異なりましたが
*3:NATO諸国のような自由民主主義圏を想定しています
*4:そんなものあったら大きな物語なのでポストモダンの前提が失われますよね
*5:少なくとも統治機構の観点から見て、地球上60億人が単独の組織(=暴力装置)によって直接統治される構図は非現実的なスケールと考えます。地球全体に対する一種の地方自治的なあり方として、国家の構図が残るように思えます
*6:ルソーの一般意思、および東浩紀の一般意思2.0を参照
*7:日本社会では、人権思想を実現するためのリソースが不足しつつあるという現実的な問題もあります。生活保護バッシングの一部にはこちらの原因もありそうです。
*8:近代的人権思想では「迷惑なんか知ったことじゃない」で終わりますが、実際に生きている人たちが熟議で合意形成するには「自称迷惑」であっても大きな問題になるのは明らかですので、無視できません
*9:暴力団をめぐる権利制限はこの文脈で理解すべきです。
*10:熟議を通してこういう構図を作って行くのは難しそうですが、たとえば特区制度あたりはこの手の話かなー、と。