社会の期待を守るコンプライアンスと、自由のあり方について

よく世の中を騒がせる「トレパク」案件。
騒がれる案件の中には著作権法の枠組みから見るとトレースも目トレースも何も変わりませんし、そもそも著作権侵害とは言えないレベルの案件も混ざってますが、でも騒ぎは起きます。違法じゃない=「やってよい」に見えるのになぜ騒がれて叩かれる?理解に苦しむ人も多いでしょう。
このあたりを考えるツール、「フルセット・コンプライアンス」って概念が役立つかもしれません。

郷原弁護士が唱える「フルセット・コンプライアンス」の概念では、コンプライアンスとは法を守ることだけではなく、社会の要請を裏切らないことが求められています。
オタク系のイラストレーターをめぐる社会*1は、「トレパクはNG。目トレースはOK」という期待をしています。その期待を裏切ることは、法的には問題なくても社会的には許されません。だけど、法的に問題ないことであれば法をはじめとした上位社会の権力は機能しないから、市民レベルでコンプライアンス違反を糾弾せざるを得ないのです。
「法的に問題がないことなら何をやっても良い」という表現がしばしば使われますが、本来ここで問題となる概念は「法」ではなく、「コンプライアンス」のほうです。社会の期待に反する行為は合法であってもNGなんです。

とはいえ、トレパク行為は(著作権法に触れない範囲であれば)OKである以上、「合法であればOK」という論理を振りかざす組織相手にこのロジックは通用しません。
コンプライアンスを軽視するような組織相手には、その組織が生み出す商品に対する不買運動といった市民的な手段で対抗する必要があるのでしょう。

で、こういうアプローチは多分「自由」を破壊するものになっています。なんですが、いまや「何をやってもいい」的な自由からは良いものは生まれないという実績が出てしまった状況なのかな、と思っています。

基本的人権のあり方についても、一定の見直しが必要な時代は来ているのでしょう。*2他人を信頼しない社会においては、無条件で権利の行使を許すというアプローチは成立し得なくなっているように感じられます。たとえば、社会の期待に背かないことの説明責任を基本的人権を行使するための最低条件にする、といったアプローチが必要なのかもしれません。

*1:作り手だけではなく、受け手としての一般人も含みます

*2:寂しいことではありますが。

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