SEALDsの活躍とか含めて「民主主義とは何か」という議論が一時期面白かったですよね。
こんな本が出ていたりもしますが、本記事エントリは民主主義がカッコつきです。
以下長いので折りたたみます。
カッコつきの民主主義を考えるネタとして、この記事を紹介します。
今日のエントリで紹介する核心はここ。
炎上の仕組みは簡単なものだ。
まず当人が行ったことがどれだけの人間に受け入れられ、どれだけの人間に批判されるかという所から始まる。
見た人のうち9割が賛同する内容なら炎上はしない。
見た人のうちの6割程度が賛同するだけでも炎上はしないだろう。
見た人のうち8割近くが批判する立場になるような、そういう不快な行動をとったからこそ炎上するのである。
~~中略~~
炎上と言えるほどに多くの人間が非難するということは、実際にそれだけ人を不快にさせる行動をとったということである。
多くの人間が関わる為、それを「一致団結して蹴落としてやろうとする特定の集団がいる」ように見えてしまうのかもしれないが、
実際に集団が存在する場合もあるが、そのような「集団的に」批判する人間の数は少ないもので、
小さな集団と、集団には含まれないその他大勢がいるだけで、「個人的に」嫌だと各々が呟いているだけに過ぎない、ということだ。
小さな集団だけが立ち、その他大勢の同意を得られないような火は、先ほど述べたようにその集団内だけで焚き火をしている格好になる。
結論として、「行き過ぎている」とは言えない。
上記の議論、とても単純明快で合理的だと思います。なのですが、だからといって良いかどうか、というと全くの別問題。
SEALDs騒ぎのとき、「民主主義は多数決主義と違うのか?」という議論が活発でした。例えばSEALDsを批判する立場の人間から見ると、「民主主義は多数決主義なのだから、正当に多数決で定まった法律を少数派が批判することは妥当ではない」という議論になり、それに対してクリーンヒットな反論は「SEALDsは多数派ではないので法律は制定していない。SEALDsが法律を制定できる社会はおそらく日本政府が機能を失っている状況で革命と呼ばれるに値するが、日本はそのような状況にはない」でした。*1一方、リベラルな人たちは「民主主義の本質は熟議にあり、国会での議論は熟議と言えるほどのものではない」と主張していて、これに対する反論は「十分な時間議論した。これ以上引き延ばしてもモノを決められない国家ができあがるだけ」でした。*2
で、上記blogから引用してきた議論は、民主主義と数の論理を全くのイコールと見なしています。「多数の人数が批判しているから、炎上は正当だ」と。*3
「民主主義」にカッコをつけた話の出発点がここになります。
民主主義の前提として、しばしば少数意見の尊重が語られます。ですが、一つ一つの意見はどの程度尊重されるべきなのでしょうか?例えば「○○人を皆殺しにしろ!」という過激かつ排外的な意見は少数意見だとしても尊重されるべきなのでしょうか?ある自治体で過半数が「○○人を皆殺しにしろ!」と主張したらそのような条例が制定されるのは民主主義としてアリなのでしょうか?*4
一方、民主主義のインフラである会議に用いられる標準的なルールである「ロバート議事規則」では、原則として動議(=提案)にはセコンドを必要とします:「動議が議論されることに値する、という支持」が必要です。つまり、ごく少数者の意見は無視されることを想定しています。
一人一人の意見を平等に尊重する社会というのは、たぶん民主主義の皮をかぶった他の何かです:例えば数の暴力や、そういった力を誘発するインフラ*5の増長を招きます。私はこういう考え方を、「民主主義」といった形でカッコ付けなり何なりして民主主義と異なるものと考えます。
民主主義においては、おそらく一つ一つの意見に異なる重みがつけられる必要があるのでしょう。ただ、この重みをどうやって決めるのか?という問題は残ります。民主的に決めることはおそらくできないでしょう:正のフィードバックを起こし、少数意見を平等に尊重した結果としての「民主主義」以上にまずい結果へ突進しかねません。
おそらく、意見一つ一つの重みを決められるものは、例えば国会や自治体議会における議員一人一人の知性なのだと思います。*6だから、議員のうち少なくともそれなりの数は知性と教養を備えたエリートでなければなりません。
知性やリベラルに対して反感が強くなりつつある全世界の傾向は、民主主義を「民主主義」化して社会の暴走を引き起こす可能性があり、憂慮せざるを得ません。
で、同人活動における表現の自由に対して「民主主義」的な仕組みを入れようとすると、「多数に支持されているサークルのみ活動の権利を得られる」という話になります。現実的にはこれなんですが:
ある表現が世に出るためには誰か(実際には多分エリートや政治家)の紹介(=承認)を必要とする、というモデルはどんな問題があるのだろうか。
— あかみ (@akami_orihime) 2016, 1月 26
長期的に、同人即売会へのサークル参加を紹介制にしていく、というモデルはどのくらい機能するのかな?
— あかみ (@akami_orihime) 2016, 1月 26
まあ無理ですよね。
*1:まあその通りですよね。個人的にはSEALDsは少数派であること自体に意味があると考えています。発言と行動の整合や全体の調整を考える必要がない立場だからこそ理想を発言できて、それは社会に向けてひとつの灯台たり得る、と。
*2:個人的には、議論の前提として全員がこの件を議論するに十分な情報を得ているのか?と反論したい立場ではあります。戦後日本は安全保障や軍事の使いこなしがド下手なので、議論の前提を整えるのに時間やリソースが通常以上に必要なはず
*3:炎上が発生するロジックとしてはある程度正しいと考えますが、小さな火だねを煽り見える化するまとめ系インフラの存在や、大きな声を集中的に拡声する社会システムの影響を軽視しているだけではなく、ロジックの正しさと倫理的な正しさをごっちゃにしています。新自由主義者や共産主義者がしばしば陥る愚。
*4:個人的にはダメとしか言い様がないのですが、多数決主義と民主主義の同一視はこういう結果を招きます
*5:典型的には政権のコントロール下にあるマスコミ
*6:これをカネで決めようというのが、例えばリアルタイムでは甘利大臣秘書に代表されるような旧来の自民党の口利き&カネのモデルかと。新自由主義に従えば議員一人一人の口利きという限られたリソースをオークションで奪い合うシステムなわけで、新自由主義とは整合が取れているような気もするのですが、正のフィードバックすなわち勝者の力がますます強く、弱者の力がますます奪われる枠組みなので、そういう意味でアウトです