最近話題?の @noiehoie さんの記事。
これを読んでちょっと考えたことを。
クラシック音楽は、古典からの積み上げによって理解されるべき*1種類の音楽です。民謡と区別の付かない単旋律教会音楽から始まってオルガヌム、対位法、そしてバロックから古典派的な造形、そしてロマン主義を投入してロマン派から国民楽派への分岐、さらに調性の壁をぶち破ろうとした最末期や印象主義、そして新古典に前衛からの失敗からの新ロマンの営みと。
じゃあ、古典を知らずにクラシックを楽しむことはできないか?という話。さらに言えば、これを同人音楽に置き換えたらどうなるか?
同人音楽といえどもそのベースになるポップスをはじめとした通俗音楽の多日案がクラシック音楽を背景に置いている以上最低限のクラシック音楽への理解は必要なんですが、その程度の理解なら日本に住んでいればクラシック音楽を背景とした音響はいくらでも流れているわけで*2、インドをはじめとした非西洋音楽圏の一部で起きているような「クラシック音楽が前提としている音響の美を理解できない」という事態は日本ではそうそう起きません。*3
楽しむ限りには、必要最低限の知識(形式化されているかどうかを問わず)を持ってコンテンツを楽しむのでも良いのでしょう。
ただ、そこの背後にある文化や歴史を学ぶ、教養と専門を問わず学ぶには、やはり積み上げられてきた伝統を知る必要がある、ということなのでしょう。
日本において「国語」と名付けられる日本語の教育には、語学教育の側面と、日本文学の歴史、さらには文学作品によって照射される時代文化を学ぶ側面があります。
楽しむために作品の背景は必要か?そういう作品もあるでしょうし、そうでない作品もあるでしょう。例えば古文文法知らずに源氏物語を原文で読みこなすことはできませんし、時代背景が分からないと味わいが分からない表現だってあるでしょう。だけど、現代語訳された源氏物語を読むのに古文の文法を知る必要はおそらくないですし、良く翻訳されたものであれば時代背景に対する理解の要求も原文よりは少ないはずです。