クリエイター一人一人が政治にどう向き合うか

わたしはこれまでに色々な同人活動をやってきました。その中には成功したもの、失敗したもの含めて、多かれ少なかれ政治と直結したアクションを必要としたものもありました。

その経験をもとに、クリエイター一人一人が政治とどう向き合うか、考えてみました。
私自身も何度か考えを変えてきている話題なのですが、いまの考えで当面は落ち着きそうなので、自分の思考のまとめとして。

以下長文なので折りたたみます。

 そもそもクリエイターは政治に関わるべきなのか?

しばしば見かける、この手の問い。私の考えでは、この問いはそもそも立てる段階から間違っています。

私の考えでは、あらゆる表現活動は、多かれ少なかれ政治的な色彩を帯びます。ある表現が世に出るということは、必然として個人的に/集団的に/組織的に/社会的に受け入れる/受け入れないの判断がどこかで下されるということ。
日本の法律では「政治活動」は「一般的には政治上の目的をもって行われる一切の活動、すなわち政治上の主義、施策を推進し、支持し、若しくはこれに反対し又は候補者を推薦し、支持し、若しくはこれに反対することを目的として行う直接間接の一切の行為をいう」と定義されており、「ある特定の表現を受け入れる」という考え自体が「政治上の主義、施策」であると読み解き*1、その範囲であらゆる表現は多かれ少なかれ政治活動です。

クリエイターは、自分たちの営みを通じて、日々政治的な活動をしています。政治に関わらない、という選択は一切ありません。

さらに言えば、東浩紀「ギートステイト」でこのような文章がありました。

特定の商品の購入はそのまま政治的な立場の表明と見なされる

上記記述自体はあくまで2045年の未来予測の1ページ、それもひとつの特殊な前提*2を加えた上での未来予測の1ページではありますが、未来どころか現代においてもある程度成り立つものでしょう。その意味で、クリエイターの表現をエンドユーザーに買ってもらうということは、それ自体が政治的な営みです。

クリエイターはどの方法で政治に関わるべきか?

政治に関わる、といっても色々な方法があります。先ほど述べたように、日々の表現活動は即ち政治的です。自分たちの表現活動が受け入れられるように個別のアプローチを取る手段もあるでしょうし、もしくはあらゆる表現が受け入れられる余地を増やすようにアプローチしていくこともできます。

一人一人が政治的に立場を表明することも、ひとつの政治への関わり方です。業界団体を作って政治家にロビイングすることも、自分たちの表現を買わせるために電通に高度なメディア戦略を発注することも、これまたひとつの政治的アプローチです。

クリエイター一人一人が置かれた立場によって適した手法は異なるでしょう。例えば周囲に多くの敵がいるクリエイターならば、与党政治家のように「政治的な正しさ」が措定される勢力を支持することで、自分の立場に政治的正統性を付与し、もって周囲の敵による敵対行動を押さえることができるかもしれません。もしくは原理的にはAK47や包丁を持って敵を一人一人物理的に撃破=生物的に殺害することもできます。*3周囲に味方が多いクリエイターで資金力があれば、電通を経由してメディア戦略を仕掛けることで、自分たちの政治的正しさをメディア経由で流布することができます。*4政治家にロビイングを仕掛けることで自分たちにとって都合の良いルールを制定してもらう/都合の悪いルールの制定を控えてもらうこともできます。

少なくとも普遍的な立場からは、どのような方法で政治に関わらなければ「ならない」という規定はできません。

 政治家と一般市民

通常の民主主義社会において、政治家といえば選挙を通じてそれなりの人数の支持を得ることで、間接民主制における代議/熟議の場に参加する権利を得、採決に参加する義務を負う者です。

個人的には、自律的に民主主義社会を正常に/持続的に機能させることはできず、正常に持続的に活動できる社会を生み出すにはエリートとしての政治家*5による善導が必要になるのでは?と考えているのですが、ここは「考えている」以上の説得力を持ちうるところまで思考できていません。

政治の枠組みにおいて、しばしば政治家は一般市民から見ると近寄りがたい人、と見られています。そりゃ自民党の古い代議士に口利きをお願いすると数百万円とか取られますから*6普通の人はそうそう政治家に近づいてアクションを起こすことはできません。*7
なのですが、現実問題として政治家へ自分たちの要望を伝えることができなければ、政治家が自分たちの要望をきちんと現場に反映してくれる、ということはあり得ません。

自分たちの意見を政治家にどんどん伝えていく、そのかわり政治家が求めるようなリソースを政治にも提供していく、そういうスタンスでのおつきあいが実現できたらいいな、と思うところです。

で、政治家がエリートであることはここから効いてきます。例えば「○○人を虐殺してほしい」という政治的要望が十分な金額の政治献金を添えて多数の市民から寄せられたとき、その要望を通すべきか?新自由主義に照らせばその要望を実現するのは妥当かもしれませんが、人道として妥当ではありません。新自由主義はシステムでも代替可能ですが、人道はシステムでは代替できません。この手の状況で、人の道を政治の先端に反映できるのはおそらく人間で、だからこそ政治家は十分な倫理と知性を兼ね備えたエリートでなければならないのです。

政治家がエリートであれば、こういう構図も実現可能だと思うのです:市民から上がってくる要望で政治家が説得されるのであれば、その要望には例え少数者の要望であっても一定の理があり、行政の現場で考慮されるに値する、と。
「公益性」ってのは多分こういうことなんだと思うんですが、エリートでない政治家が生まれてしまうと「その政治家の好き嫌いで、もしくはイデオロギーで」説得の可否が決まってしまう可能性がありそうです。例えば「○○人を虐殺しろ」という要望が上がってきて政治家のフィルターを通過する、といったばかげた話。

政治を学ぶ

もちろん大学の政治系学部/学科や、政党が開催している政治家塾のような組織で政治を学ぶことは、一つの体系化された学びとして有益です。
ですが、多くのクリエイターはそこまでの学びにコスト(時間、お金、その他もろもろ)を投入する余裕はありませんし、高度な学びを得なければ発言できない/社会に関わっていけないという態度は、一種のおごりでもあります。*8なので、よりライトに政治を学び、表現活動を通じて、もしくは表現活動のために政治に関わっていく必要がありそうです。

例えば政治家のブロガーは「生きた政治家」を知るという意味で大切な情報源です。最近twitterでもしばしば言及する音喜多都議のブログには、しばしば政治の現場の判断プロセスが展開されていて、とても参考になります。

otokitashun.com

……音喜多さんに質問メールを打っても返信がなかったことがありまして、やっぱり政治家は選挙区外の一般市民には冷たいのかとがっかりしたのはここだけの話として。

MIAUに関わりジャーナリストとして活動されている津田大介さんのメールマガジンでも、しばしば政治の現場の話が語られています。

津田大介公式サイト | 津田マガ関連ニュース

敗者/失敗者が政治に関わるべきなのか?

日本の社会には「穢れ」の発想があり、敗者/失敗者が政治に関わること、言説に限らず機会を得ることを極度に嫌います。

なのですが、失敗した人、競争に負けた人も、一人一人の市民です。彼らに主張があれば、その主張は政治のプロセスを経て受け入れられざるを得ません。そうすると、敗者や失敗者も政治に関わらないという選択肢はありえないのかな、と。

世の中では「敗者は叩いても良い」「失敗者はやっつけてもよい」という思想/行動がはびこっています。このような思想/行動から身を守るためにはAK47も多分有効ですが、実際には政治的なアプローチもある程度有効だと思うんですよね。

たとえ味方が少なくても、敗者や失敗者が自らの要望を公益性のある形に置き換えられれば、その要望は政治家のフィルターを通して政治プロセスに上がる可能性があります。

さて、自分がどう政治に関わるのか

たぶんこれが一番大切なことかな、と。

かつて、自分の表現活動は一部の力ある人たちによって「政治的に排斥されるべき対象」とされたことがあります。なので、「自分の表現を自分で守る」ことは、政治的なアプローチに訴える価値のある重要なトピックです。普通の人より表現活動の政治性について強く考えているのは、たぶんこのあたりの経緯が原因かなー、と。

私怨を振りかざすなら色々言いたいことはありますが、それには多分意味はありません。それこそ音喜多さんが主張されるこのエントリの通りの話で、私怨に力がついてはいけません。

otokitashun.com

自分自身が要望すること、例えば二度と自分の権益が権力者によって奪われないこと。それを、単なる自分自身の個人的なお願いではなく、誰でも同じように適用できるような普遍的なお願いに昇華させた上で、(自分も利益を得る形で)政治の場に上げていくことが、多分大切なのでしょう。本件の場合、「あらゆる表現に対して、表現の自由が適用されること」を望めば、必然的に自分の表現にも表現の自由が適用されます。

一時期、私はこんなことを考えていました。

  • 一般市民が政治に関わってはいけない。政治は政治家の専売特許であり、私たちは自民党への投票を通じて自民党にすべてを委ねたのである。
  • よって、私は自民党を支持し、長いものとしての権力者を支持することで、自分の表現活動の権利を恵みとして与えてもらうことができる。

なんですが、この考えって明らかに間違っていたのですよね。政治は一人一人が関わるべき話題ですし、長いものに巻かれることが全てでは決してありません。

自民党のやっていることには良いことも悪いこともあります。例えば55年体制に始まるパックス・アメリカーナへの組み込みは自民党の偉大な業績でしょう。隣に東側の核保有国があっても日本が朱い核兵器で駐車場にならなかったのは、西側の盟主・アメリカに日本の守りをお願いすることができた自民党の偉大な業績です。ですが、自民党の経済思想、特に一般市民個人個人への富の再分配を極度に嫌う体質は、特に福祉や災害対応の局面では良くない結果を生みます。

コミックマーケット準備会は巨大な規模の即売会を定期的に安定して開催し、近年は自民党へのロビイングをはじめとした政治的なアプローチでTPPによる著作権規制強化から同人的二次創作を外すことに成功したという実績をあげています。ですが、コミケスタッフが特定のサークルやジャンルを名指しで「コミケからの追放が検討されている」的な発言をする風景、数限りなく見てきました。三代表がこんなやりかたを認めると思っているなら、何かが甘すぎます。

良いことは良いと評価し賛同し、悪いことは悪いと評価して批判する。クリエイター一人一人が政治に関わっていくには、この態度が欠かせないと信じます。

で、そういうアプローチをもって自分の権益を守るために*9、自分の表現活動を支えるために、わたしは政治に関わっていくことになります。

*1:現代における「表現規制」の問題はまさにこの論点と直結していて、ある特定の表現が個人的に/集団的に/組織的に/社会的に受け入れられるか、という議論になります。

*2:情報技術が極度に普及し、情報技術が極度の新自由主義を実現たらしめた社会。あらゆる公共サービスは民間企業によって収益事業として運営され、料金は需要と供給を踏まえて秒単位で動的に値付けされる、といった環境が想定されています。

*3:ナチスの政治学を支えたカール・シュミットは、政治とは即ち敵を物理的に=生物的に撃破/殺害するプロセスだ、と喝破しました。現代日本法に従えば敵の殺害は明確に違法行為ですが、シュミット的な政治学に従えば敵の殺害と政治はイコールであり、即ち敵の存在は自分の生命にとって重大なリスクであるのでさっさと殲滅して政治的に立場を確保せよ、という流れになります。だからナチスドイツがああいう戦略に走ったわけですが。

*4:いわゆる大企業によるクリエイティブって、だいたいこういうことですよね。

*5:ここで「エリート」とは、十分な教育を通じて倫理と知性を兼ね備える存在である、とほぼ同義です。

*6:20年~30年前では当たり前の構図でしたし、最近も当時の構図を墨守しようとした甘利大臣の首が飛びました。新自由主義に従えばより多額の口利きを払う能力のある人の主張が「政治家の口利き」という限られたリソースを購入できる、という仕掛けは間違っていませんが、民主主義に照らしてさすがにおかしいだろ常考、というやつです。

*7:一般市民が政治家経由で(個人的な利益ではない)何かをお願いせざるを得ない状況に陥った場合、現状では共産党の代議士にコンタクトを取るのが最善と言われています。

*8:逆に言うと、高度な体系的な学びを得ている人たちは、どうやって別分野からの入門者/初心者に適切かつライトな学びを提供するか、という課題を考え続ける社会的責務があると考えています。

*9:当然公益性のない権益を表明するのはアウトです。