あけましておめでとうございます。
もう2週間ほどたってしまいましたが、今年もよろしゅうお願いします。
さて、今年一番目の日記は「イノベーティブであること」と、「社会の理解」の間のお話。
もちろん個人的には織姫オペラシアターをめぐる一連のゴタゴタがありますし、社会的に最近アツいのは武雄市の一連のお話とかカオスラウンジとか福一麻雀化とかそこらへんですかね。
……という日記を書こうと準備していたら、本丸の東浩紀さんがこんなツイートをぶっぱなしてくれました。
マジレスすると、なにが正しいか正しくないか、その価値観そのものを変革しようという動きに対して、そもそも社会を変革するためには多くのひとを巻き込まねばならないのだから一般の正しさに寄り添う必要があると反論する——これはそもそも前衛の存在意義に繋がる話なので答えるのが難しい。
— 東浩紀 (@hazuma) 2014, 1月 2
「社会変革はいまある常識の破壊でしかありえない」派と「いまある常識に寄り添うことでしか社会変革できない」派の対立は、哲学思想の根本的な対立に繋がります。ぼくはデリダが出発点なので当然前者。むろんそれを認めないひともいるでしょう。ただなにも考えずそう主張しているわけではありません。
— 東浩紀 (@hazuma) 2014, 1月 2
ゲリラという言葉にしたってグラムシとかいろいろ背景がありまして、とかいってももうだれも理解しようとしないし、それどころか「おれらに理解できるように説明しないおまえが悪い」の大合唱なのが日本のネット。それはしかたないけど、それにつきあう必要もない。それがさっきの呟きの主旨です。
— 東浩紀 (@hazuma) 2014, 1月 2
おかげで一連のツイートをふまえずに議論できなくなっちゃったじゃないですかぁ!
デリダちゃんと読んでないのにぃ!
という怨み節は脇に置いて。
結局問題の一端って、「社会変革を提案すること」と「社会変革を実行すること」のギャップにあるのかな、と思ってます。
社会変革の提案は自由です。提案が言論や表現といったメディアにとどまる限り、あらゆる提案は表現の自由によって保護されます。*1なんですが、行動の自由なんてどこにもないんですよね。
「ツタヤのレンタルビジネスと公共図書館の共存」って構想を考えるのは自由だし表現するのも自由。複本問題あたりには面白い解決策になりそうです。
だけど、実際の図書館と実際のツタヤをガチャコンさせる行為が自由かというと、それはかなり疑わしそうです。少なくとも現行の武雄の実装は問題だらけで、あんなもの増えてたまるか!*2
織姫オペラシアターも企画書の段階に閉じていさえすれば自由だったんですが、実行して失敗したことでさまざまな報復を呼び込むことになったし、同人音楽世界で報復行為が是とされる空気感を作ってしまったわけですよね。*3
となると、落としどころはこんなところなのかなと思います。デリダ読まずにきちんとした議論で繋ぐのが直感的に怖いんで、まずは出発点と目的地を放り投げて。
- 言論表現の自由は根幹レベルで重要。だから、社会変革の提案については「無条件で自由」と考えたい
- だけど、社会変革を実行する自由なんかどこにもない*4
- おそらく、気軽に実行して良い社会変革は「断絶を伴わない範囲」まで。連続的な変化は多分そんなに問題なくて、実行してうまくいかなければ元に戻れば良い。
- 断絶を伴う変化は気軽に実行してはまずい。もし実行するなら、ステークホルダーを広範に巻き込んだ熟議が必須じゃないかな。
- 一般の正しさに寄り添わずに「実行した」場合でも、うまくいけば多分問題ない。うまくいかない場合はどうするか?
- 特に、広範な支持を受けていない特定少数が自分勝手に暴れ回って変革を不可逆的に叩き潰す、もしくは変革者の殺害の類を遂行する、といったリスクはどう考えるか?
熟議を得ていない変革に対しては、特定少数が「自分たちが変革を叩き潰す行為は社会的に支持される」と思い込み、たとえば包丁をイベント会場に持ち込む、もしくはイベント会場で貸し出されている木刀を持ち出すなどしてテロを引き起こすリスクを無視できないと考えます。
そういう事態に対して、言論はやっぱり無力なんですよね。言葉では直接人を殺すことは難しいですが、包丁や木刀は簡単に人を殺せる道具です。で、死んでしまえば全てが終わり。
不可逆な営みがもたらす影響のこと、もう少し慎重に考えたほうがいいかもしれません。
で、抽象的な意味での表現ってのは「本質的に不可逆な事態を引き起こさない」って要素があるんですよね。もし表現が不可逆な影響をもたらしたとしたら、表現に使われたメディアがまずいか*5、もしくは表現を受け取った誰かが不可逆なことを起こして表現者に責任を押しつけたか*6のどちらかです。
だからこそ、表現でイノベーションを誘発することは大いにアリなのかなと。あくまで実行者が真剣に気をつければ良い話で。となると、多分イノベーションの実行者と考案者は別の人のほうがいいんでしょうね。